テレビ東京「日本ミステリー」より
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)とは平安時代初期の815年に編集された氏族の抄記・姓氏録。「弓月国の王が百二十七縣の民を引き連れてやってきた。」とある
日本書紀の記述は次のようなものである。応神天皇十四年、弓月君が百済(朝鮮古代の三国の一)から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし 新羅人が拒んでいるので、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかっ た。応神天皇十六年、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を 授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅(朝鮮古代の三国の一)が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進 めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に帰ってきた。(ウィキペディア百科事典より)
〈弓月王国とはなんなのか〉
中国の歴史書『資冶通鑑』には、651年ころには、三日月王国(Kung Yueh)が「弓月王国」だと記されている。記録によると、唐の時代、西域諸国とともに「弓月王国」は唐を相手に戦争を行っている。
戦争が始まると2803年頃「弓月王国」の王「弓月君」は、国を脱出して朝鮮半島へ亡命。やがて日本列島にやってきたようである。(『「秦氏」の謎』より 学研出版)
佐伯博士の主張によると-「西突厥(にしとっけつ)」という国の一部となってイスラム教に改宗するまで国民のほとんどがキリスト教徒であった。秦氏は弓月王国の人間であり、彼らの宗教は原始キリスト教である。
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